日本という国が造られていく初期
都は様々な理由で頻繁に遷都されていました
その都の1つに現在の大阪城付近に造られた
難波宮(なにわのみや)があります
そこに第16代仁徳天皇の皇居「難波高津宮」があったとされ
現在の高津宮(こうづぐう)は
その跡地を探すようにと貞観8年(866年)清和天皇が勅命を出し 探索された地に社殿が築かれ仁徳天皇を祀ったことが始まりとされています
その後その地に天正11年(1583年)豊臣秀吉が大坂城を築城することになり
高津宮を大阪城からもう少し南へ行った比売古曽社のあった場所にご遷座(御神体がおうつりになること)し現在に至ります
ちなみに住所は中央区高津1丁目
お宮さんの名称が地名となっています
今では地下鉄も通り谷町九丁目からほど近く
繁華街心斎橋 難波からも歩ける距離にあります
高津宮は昔から庶民の信仰も篤いお宮さんで心斎橋や難波の旦那衆にも愛されたことから文化的な側面もあり数々の文楽や落語の作品の舞台にもなっています
現在はその文化を受け継ぎ古典落語「高津の富」の話から「高津の富亭」としてお宮さんの中で落語会が開かれたりしているそうです
そんな高津宮は仁徳天皇が御祭神ということから天皇家との縁が深く皇室や時の幕府からの援助を受け常に修復を重ねてきましたが 戦争で空襲に遭い神輿庫を残して社殿は全て焼失 その後再興され現在に至ります
仁徳天皇が何故こんなにも崇敬篤く祀られているのか
それは彼の行った徳の高い治世によります
ある日高台から人々の様子を眺めた彼は村の家々の竈(かまど)から食事時にも関わらず煙が出ていないのをみて人々の困窮を知りその後諸税を3年間無税とし人々の竈からは再び煙が上がるようになったというお話は有名
結局10年無税を続け自身の宮が雨漏りしても節約して直さなかったとか
当時大阪の地は川の氾濫が頻繁におこり人々が困っていたのを治水を行うことで人々の暮らしを助けたなど
常に民を思い民と共に歩む治世を行った事が皇室や民衆の信頼を篤くしたのだと思います
また高津宮では2月23日に天皇陛下誕生祭併的祭(てきさい)が行われています
高津宮によると
「皇室では陛下がご誕生された場合徳のある方にちなんでお名前を命名されるのですが 現在の天皇陛下がお生まれになった時 高津宮の御祭神である仁徳天皇の御事跡を朗唱せられ御名を『徳仁(なるひと)』 と御命名されたゆえんを畏み 毎年二月二十三日に陛下の誕生をお祝いしご健勝祈念いたしまして御神符および神菓を献上いたしております」
とのこと(ホームページより)
第16代天皇の仁徳天皇から第126代徳仁天皇へと受け継がれた想い
悠久の歴史を感じます
大阪発展のそもそもの礎を築いた仁徳天皇の徳の高い行いは大阪の市歌にも歌われ
「高津宮(たかつのみや)の 昔より
よよのさかえを かさねきて
民のかまどに たつ煙
にぎわいまさる 大阪市」
とあります
ところで先日
「大阪府庁舎議場見学を体験」という記事で府の花が「梅」であることを書きました
その根拠となった歌
「難波津(なにはづ)に 咲くやこの花冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花」
は古今和歌集の仮名序に記されていますが
実はこの歌が書かれた経緯は
仁徳天皇がご即位された際百済の渡来人王仁(わに)博士がお祝いに歌を詠んで梅の花と共に仁徳天皇へ届けたことに依ります
府の花「梅」の由緒はここにあったのですね
その故事に因んで参道入口から少し行った所に「梅乃橋」という橋がかかっています
下にはかつて梅川(梅津川)がありその川はかつて道頓堀川へと繫がっていたそう
大阪の川はあちこち付け替え工事が行われて現在その面影はありません
高津宮では現在も年に一度氏子の代表者を「献梅司」に見立て仁徳天皇に梅を捧げる「献梅祭」が行われています
橋を渡り階段を上ると境内入口となります
この日は茅の輪が設えてありました
入ると正面に本殿
この日は左右に舞台が拵えてあって歌や踊り
大阪の祭りといえばの「龍踊り」も披露されていました
奥に進むと「神輿庫」
戦争で唯一焼け残った建物です
神輿庫左手にある「絵馬堂」
中には大きな絵馬が掲げられ高津宮に縁のある話 文楽の「夏祭浪花鑑」や仁徳天皇が高台から民の竈を眺めていらっしゃるお姿などを見ることができます
この日はここで「龍踊り」が披露され賑やかな鐘の音が境内 いや街中に響いていました
変わって本殿右手にあるのが「高倉稲荷社」
先ほど絵馬にもなっているとお話しした文楽の「夏祭浪花鑑」
これはなかなかの世話物(庶民の恋愛話や実際に起きた事件などを描いた作品)で
クライマックスは高津宮の宵宮の日
鐘の音賑やかなお祭り騒ぎのなか 鬼気迫る刺青姿の主人公が舅を斬り殺す「親殺し」の場面が見せ場
こちらの「高倉稲荷社」は芸能の神様でもあることから国立文楽劇場の楽屋入り口に高倉稲荷の神棚があり出演者はお祈りされてから楽屋入りするのが習慣となっているそうです
ちなみに
落語では「高津の富」も有名なお噺(はなし)
嘘つき貧乏人が自分は大金持ちだと嘘ぶき話の成り行きから仕方なく高津宮の富くじを買う羽目になってしまったがこれが大当たりするというお噺
どれだけ金持ちかと大嘘をつくところなどが大層面白いのですが
このお噺に因んで現在4月の「初午祭」では高津宮で富くじが行われているそうです
来年是非行ってみたい!
本殿前にお神輿が飾られていました
一通りぐるりとしたので境内入口から左手奥に進んだ絵馬堂でもう一度龍踊りを見ようと進むと絵馬堂の両側に階段を発見
左手は「相合坂」といい
下にある左右の階段を男女が別々に上っていき頂上で同時に会うと離れないといいます
知らんけど(大阪名物知らんけど(笑))
逆に右手にある階段は「縁切り坂」
明治初期までこの階段が「三行半(みくだりはん)」の形状であったことからこの名前がついたそうです
たぶん踊り場を挟んで3つ半下る形状?だったのかしらん
三行半(みくだりはん)というのは江戸時代の離縁状の形式のこと
決まった言い回しがありその書面が三行半だったことから縁を切る用語となったようです
その右手奥にはお宮さんを抜けられるようにもう一つの門がありました
こちらの門からは急な下り階段
降りてお宮さんを見上げるとこれだけの高低差があります
昔からここが上町台地のへり
絵馬堂からはまだ高い建物などなかった時代大阪の街並みが美しく見下ろせたようです
下った道には屋台がいっぱい!
今も賑やかに町の人達が行き交います
さて そろそろ我が家の竈に帰ろうかな
駅へと向かう道は屋台を抜けると淋しい通り
けれど今夜だけは
賑やかにかき鳴らされる鐘の音がどこまでも見送ってくれます
今度ここを訪れるのは落語会かしら献梅祭 それとも富くじ目当てかな
楽しみをたくさん見つけて
笑顔のまま帰途につきました
そうそうこちらのご朱印帳は「仁徳天皇陵」の表紙だそうです
ご朱印を戴くのにお渡しすると絶対
「大阪からですか」とわかっちゃうやつ
お話が弾みそうです(笑)