美味しいしあわせ

くつろぎのひと時のお料理やお菓子とお酒 季節の花と緑

四天王寺盂蘭盆会 夜の風舞い上がる炎と祈り


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お盆の頃 四天王寺さんの前を車で通る度に

見える賑やかな提灯の灯り

つい先日 子どもたちの夏休みが始まったと思ったら もうそんな季節なのね

と 夏休みが終わってしまう

そんな少し寂しい気持ちで

チラリと見ては 通り過ぎていました

お盆は ご先祖様に感謝や追悼の気持ちを捧げる時間

けれどその重みは 本当に大切な人を亡くしたときに 全く違う質量になるものです

チラリと通りすがりに見ていた四天王寺さんの盂蘭盆

今年は 初めて行ってみようと思いました

まずは 

四天王寺について学んでみたいと 

いろいろ調べてみました

四天王寺は593年(推古天皇元年)

聖徳太子によって建立された寺院です

聖徳太子」とは 死後与えられた尊号で

名前を「厩戸皇子」(うまやどのみこ)

574年に 用明天皇(ようめい)の第2皇子として誕生しました

四天王寺建立の由緒は今から1400年以上前 

崇仏派の蘇我馬子(そがのうまこ)と

廃仏派の物部守屋(もののべもりや)の争い

政権争いから始まったこの戦いですが

崇仏派蘇我馬子側にいた

厩戸皇子聖徳太子)が 

苦戦を強いられるなか木を彫って仏像を造り

「この戦いに勝利した暁には必ずや仏様を安置する寺院を建てましょう」

と願掛けをして勝利し その誓いのとおり 

四天王寺を建てた とされています

四天王寺蘇我馬子が建てた

法興寺飛鳥寺)と並び

本格仏教寺院としては最古のお寺

宗派は和宗です

公式ホームページによると

「日本仏教の祖とされる「聖徳太子建立の寺」であり 既存の仏教の諸宗派にはこだわらない全仏教的な立場から1946年(昭和21年)に「和宗」の総本山として独立している」とのこと

元来は「八宗兼学の寺」として様々な教えを受け入れて学んでいたお寺

そういえば以前 私のブログの中で

阪神電車伝法駅の「伝法」の名の由来を紹介した 「阪神 山陽電車乗り放題の旅シーサイド1dayチケット」の記事で

「伝法」とは

日本に最初に仏教が伝わった地であることから伝法という名になった 

と書きましたが 

その地に古くからある西念寺でも

「四宗兼学の寺」と紹介しました 

仏教が伝わった当時は 様々な教えを受け入れて学んでいたものが 

時代と共に派閥が生まれたことにより 

様々な宗派に分かれていったのだろうと推察されます

それにより宗派同士の派閥争いが起こる

人が生きやすくするための宗教であるのに

本末転倒なことになるのは世の常なのですね

それはさておき

四天王寺のご本尊は

救世観音(ぐぜかんのん)

10人の話をいっぺんに聞いて理解した

などの逸話と共に 聖徳太子伝説として

「母 間人皇女は西方の「救世観音菩薩」が皇女の口から胎内に入り 厩戸を身籠もった」

というお話があります

四天王寺には500点あまりの国宝や重要文化財があり

また建造物としても江戸時代くらいまでは

大阪では有数の高い建物

ランドマーク的な存在でもありました 

江戸時代には 遠く中之島にある玉江橋から この四天王寺五重塔が見えたようで 

橋から四天王寺を遥拝する習慣があったとの話も残っています

現在でも JRの大阪環状線天王寺」の駅名にもなっている この辺りの地名は四天王寺から由来した名前

またお寺の最寄り駅 

地下鉄谷町線四天王寺夕陽丘」は 

四天王寺の西門から眺めた景色が由来となっています

四天王寺の建つ場所は

上町台地」と言われる高台にあり

今では四天王寺西門から西の方角を向いても街が広がっており 全く海は見えませんが

かつての大阪は今の平地の殆どが海に没して上町台地だけが陸地として突出していました

四天王寺が建立された当時は 

西側にすぐ海が広がるような土地で

一日の終わりには 西方浄土の方角に夕日が美しく沈んでいく光景が見えたそう 

その美しさを当時の歌人が詠んだ歌から

夕陽丘」の地名がついたそうです

当時見えたであろう景色は いま

ハルカスビル上層階のマリオットホテルから見ることが出来ます

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当時の人々も眺めたであろう 

西方浄土に沈んでゆく美しい夕日

海の波々に反射して 水面が黄金色に輝いていたのだろうと想像できます

このフロアから北を向くと

四天王寺が俯瞰できます

今ではビルに埋もれ少しわかりにくいですが真ん中の緑の多いあたり

五重塔の相輪(塔のてっぺんにある避雷針みたいな形のもの)が見えています
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ここで四天王寺の建築についてご紹介します
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四天王寺の伽藍配置は

四天王寺式伽藍配置」と呼ばれていて

中門 塔 金堂 講堂を南から北へ一直線に配置する造りとなっています

奈良の法隆寺西院伽藍(8世紀に再建されたものとされる)の前身である

若草伽藍(7世紀に消失)の伽藍配置もまた四天王寺式であったとのことです

聖徳太子四天王寺内に

敬田院 施薬院 療病院 悲田院

「四箇院」(しかいん)を設置し 

敬田院は 寺院として

薬院と療病院は 

現代の薬草園および薬局 病院に近い役割を果たし

悲田院は 

病気の人や 身寄りのない老人などの面倒を見る社会福祉施設のような役割を果たしていたようです

薬院 療病院 悲田院については

少なくとも鎌倉時代には実際に寺内に存在していたことが知られています

当時の社会福祉への思いは 

現在四天王寺が経営する「四天王寺学園」や「四天王寺福祉事業団」の活動に引き継がれています

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さて 593年に創建された四天王寺ですが

同じ頃に建てられた法隆寺ほどは 

当時の建築や美術品を残せてはいません

むしろ建造物に関しては度重なる破損 消失に翻弄された大変な歴史を持ちます

最初の災害は

平安時代 承和3年(836年)

落雷で初代五重塔が破損

ついで

天徳4年(960年)には火災によって全山焼失します

康安元年(1361年)に金堂が地震で倒壊し

この金堂は 後に復興しますが

応仁の乱の際に大内政弘によって放火されてしまいます

天正4年(1576年)には織田信長による大坂本願寺攻め いわゆる石山合戦で 天王寺の戦いの際 全焼

また寺領もすべて没収されてしまいます

天正12年(1584年)に金堂が再建され

文禄3年(1594年)から豊臣秀吉によって復興が行われます

単層の金堂が重層に改築され 

その他の堂舎も再建されました

慶長5年(1600年)には豊臣秀頼によって 大和国額安寺から五重塔が移築され 

4代目の五重塔となります

また庚申堂なども再建され

翌慶長6年(1601年)10月には秀頼から千石が寄進されています

しかし

慶長19年(1614年)に大坂冬の陣に巻き込まれ豊臣方によって放火された町の火が飛び火し全焼

その後 徳川家康が復興に乗り出し

死後 息子の徳川秀忠により再建事業が進められていきます(元和4年(1618年))

5代目五重塔や伽藍が復興され その他の堂も江戸幕府の援助で再建され 

元和9年(1623年)ようやく完成します

享和元年(1801年)落雷により五重塔や金堂など 境内の東半分が焼失

大坂白銀町の町人淡路屋太郎兵衛が中心となって文化10年(1813年)に 6代目五重塔や伽藍が再建されるも

文久3年(1863年聖霊院が焼失

明治時代になると神仏分離が行われ四天王寺の鎮守社であった安居神社が分離・独立

南大門の脇にあった十五社が 和光堂という仏堂に改められます

廃仏毀釈がすすみ廃絶する子院も出るなか

1871年明治4年)主要伽藍以外の境内地が上知令で国有化され

1873年明治6年)公園化されて新たに桜が植えられました

そんな中1879年(明治12年)に聖霊院が再建

1901年(明治34年)には公園地から解除され普通の国有地に変更され これ以上の公園化は食い止められました

文化10年(1813年)に再建された伽藍は昭和期まで残っていましたが

1934年(昭和9年)9月21日の室戸台風で中門が倒壊

そのために五重塔が強烈な風をまともに受ける形となり 当時展望台ともなっていた6代目五重塔が金堂に倒れ掛かるようにして倒壊

金堂も大被害を受けます

この時には 逃げ遅れた参詣者など15人が犠牲となったようです

1940年(昭和15年)7代目五重塔が再建

内部の壁画と柱絵は堂本印象により描かれ 屋根は銅瓦葺きであったそうです

しかし

太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)3月13日・14日に行われた第1回大阪大空襲で国宝の東大門や庚申堂の他 中心伽藍もろとも五重塔は焼失してしまいます

7代目五重塔は わずか5年の命でした

1946年(昭和21年)四天王寺は 天台宗から独立して和宗を創設し総本山となります

1948年(昭和23年)には国有地となっていた境内地が四天王寺に譲与されました

1950年(昭和25年)9月3日 ジェーン台風によって新たな金堂が崩壊します

逃げ遅れた参詣者2人が下敷きとなり 1人が亡くなられました

この金堂は18世紀に六時堂の北に建築された食堂を戦後に移築したものでした

奇しくも収蔵されていた仏像は無傷のまま回収されたそうです

現存の中心伽藍は 1957年(昭和32年)再建にかかり1963年(昭和38年)に完成したもの

現在 

私たちが見ている五重塔は8代目となります

鉄筋コンクリート造ではありますが

飛鳥建築の様式を再現したものだそうです

1972年(昭和47年)椎寺の薬師院堂を戦後移築していた 祈祷所「萬燈院」が火災に遭いますが 建物内にあった十一面観音像などは消火の放水で濡れたものの無事でした

最近では

2020年(令和2年)4月8日

大阪市新型コロナウイルスの感染拡大防止のため四天王寺の閉鎖を決めました

期間は同年6月8日まで

皆に開かれ 創建当時から民を救う場でもあった四天王寺が閉鎖されるのは 

創建以来初めてのことだったそうです

wikipediaより抜粋)

長いながい四天王寺の歴史は

日本の歴史と常に共にありました

そんな歴史に想いを馳せながら

数ある門のなかでも 今宵は私の一番のお気に入り 東大門から入ることにしました

駅からは一番遠く まわり込む形で入ります

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果てしなく続く塀

高級住宅街のこの辺りでは破格の土地の広さです

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夕闇迫る頃 東大門に到着

たくさんの方々による献灯灯籠が出迎えてくれます
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盂蘭盆会(うらぼんえ)とはお盆の正式名称

この時期行われる万灯供養法要は 

平安時代から続く行事です

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この日は暑いながらも 

夜風吹くなか 献灯灯籠のあかりが 

生けるものと 亡くなったものをつなぐかのように 時を揺らしていました

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遠くにはハルカスも見えます

1400年の時空を超えて 

四天王寺の 今を眺めることができます
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四天王寺式伽藍と言われる建物のまわりには

亡くなった方々を偲ぶ たくさんのロウソクが並びます

17時から始まる盂蘭盆会の法要

終了の20時まで 何度か僧侶の方々とお布施をされて供養を希望された方々が お経を唱えながら伽藍を周る法要が営まれます

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少し強い今夜の風が 

和蝋燭に灯された炎を力強く巻き上げます
風が舞うたびに 炎の熱が 

まわりを取り囲む人々に迫り 

その熱と灯りに照らされた人々の 

それでも一心に祈る姿は 

故人を想う強い気持ちを感じさせ 

見ている私の胸に 迫ってきます

私はこちらのお寺の檀家ではないので 

迷った末 こちらでお蝋燭をあげることはしませんでしたが 

お布施を心ばかりして 

同じ大阪の地の者として あまねく 

いま帰ってこられているであろうご先祖様方 そして亡くなった私の父を想い 

手を合わせました

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こちらは西大門(極楽門)

昭和37年に松下幸之助氏の寄贈により再建されたもので 極楽に通ずる門の意味から極楽門とよばれるようになったそうですf:id:habbule-no-neko:20230815144208j:image

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中門の方へ回ってきました

こちらの門の両脇には伽藍の守護神 

仁王像が立っていることから通称「仁王門」とよばれています

青い像が密迹金剛力士

(みっしゃくこんごうりきし 吽像)

赤い像が那羅延金剛力士

(ならえんこんごうりきし 阿像)f:id:habbule-no-neko:20230815144315j:image

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南西角から眺める伽藍

先ほど建物の歴史でご紹介しましたが

室戸台風五重塔が倒れて金堂も損傷を被ったとのこと

こんな大きな建物が根こそぎ倒れるほどの室戸台風は 本当にすごい台風だったのだなと

あらためて思います
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駅に一番近い西大門

遠巻きに見ていたのはこの灯りでした
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厳かで 盛大な盂蘭盆会を

体験することができました

これだけの献灯灯籠を飾り 蝋燭台を用意することがどれだけ大変なことか 

容易に想像がつきます

準備して下さった方々に 本当に感謝です

ありがとうございましたの心と共に

一礼して 四天王寺をあとにし 

歩いて天王寺駅に戻ることにしました

道中 

歩道にはこんなタイルが続いていました

調べてみてもよくわかりませんでしたが 

他の神社やお寺でも度々見る感じから 

昔の歴史的な意味のある道(かつての神社やお寺の参道跡など)にこの印がされているように思います

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商店街にも盂蘭盆会のお提灯が連なります
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今回あらためてじっくり天王寺の町を眺めて初めて気付いた天女像

中央改札脇にあるきっぷうりばの看板上に

ウルトラマンのシュワッチのポーズをした 天女像を発見!

ちなみに天女像のある方角に四天王寺さんもあります

四天王寺 コチラ→  みたいな?(笑)

誘(いざな)ってくださっているのかしら

ちなみに

毎年何日か四天王寺盂蘭盆会期間中に

盆踊りも開催されているようで

私の伺った前日に折しも大会が催されていて

河内家菊水丸師匠が 新曲

第8弾「不滅の光明 聖徳太子御一代記 太子逝く薨去編」

を披露されて随分と盛況だったようです

聞きたかったナ(笑)