「生根神社」は大阪府西成区玉出にあります
「玉出」と聞いて全国的に有名なのは
「スーパー玉出」
大阪の激安スーパーとして「秘密のケンミンSHOW」などでよく取り上げられています
玉出にあるから「スーパー玉出」
ですが玉出はかつて「勝間」と書いて
「こつま」と呼ばれていました
「こつま」なのに
「たまで」なのには理由があります
生根神社のある四つ橋線玉出駅からほど近く
日本三大住吉の一つ
大阪の「住吉大社」があります
玉出のあたりはかつて住吉大社の神領でした
玉出の由来は一説に
海彦山彦に出てくる鹽盈珠しおみつたま(潮の満ち引きを司るもの)を埋めた「玉出島」に由来するとあります
海彦山彦の話は過去に
「マグロを買いに和歌山へ」で詳しく書いておりますのでよければそちらも合わせて読んで頂けると楽しめると思うのですが
日本の皇室の始まりと深く関わる神話で
後に浦島太郎のお話のもととなります
住吉区のホームページによれば
「(住吉大)社前には「玉の井」という井戸屋形が残っており「玉の井」はその珠を沈めたところであるという伝説があり」
「「玉手箱」という地名が残って」いたと。
「玉手は玉出に通じることから玉類の出土があったと考えられ」ている
浦島太郎の話「浦島伝説」は他の地域にもあるけれどこの住吉にもあるそうで
「大海神社地(住吉大社内にある大海神社)は玉出島 帝塚山古墳は玉手丘と言われ」
「かつて住吉大社は昔すぐそこに海があり現在の玉出の方角 北門付近は「玉出島」と呼ばれていたそうです」とのこと。
さて その玉出は
13世紀に住吉から移住してきた勝間大連(こつまおおむらじ)という人によって生根神社周辺が開発されたことから辺り一帯が勝間(こつま)村と呼ばれるようになりました
その後村から町そして区になる過程で
住吉大社のある住吉区ではなく
西成区となり そもそもの地名「玉出」へと変わっていったそうです
生根神社ではだいがく祭りともう一つ
このかつての地名を冠した有名なお祭りがあります
それは毎年12月「ん」のつくものを食べて運気を呼び込む「冬至」の日に開かれる
「こつま南瓜祭り」です
こつま南瓜はなにわ伝統野菜の一つ
この地域で作られていた地域特有の南瓜です
熟すと赤茶色の皮になり甘みさっぱりとした南瓜
勝間一帯で作られていたので「こつまなんきん」と呼ばれていましたが西洋からのものに取って代わられ一時絶えたかと思われましたですが和歌山の農家さんで種がみつかり再び栽培が始まり現在もその伝統野菜を繋いでいこうと栽培が続けられています
このこつま南瓜を使って生根神社では冬至に「こつま南瓜祭り」が行われ南瓜に厄除けの小豆をのせたものが振る舞われています
ここまで玉出の地名の由来などご紹介してきましたが この地がいかに住吉大社と縁が深いかおわかりいただけたと思います
その生根神社
実はこの辺りに2つあります
もう一つの生根神社はさらに住吉大社のほど近く住吉区にあり創建は古墳時代とされる住吉大社より古いのではとも言われています
酒の神様少彦名命を祀り神功皇后(169年〜269年)がここで造酒したものを住吉三神に奉納したといわれています
玉出の生根神社についても創建時期は不詳
御祭神は少彦名命(すくなひこなのみこと)蛭子命(ひるこのみこと)菅原道真公
少彦名命は さきの住吉の生根神社から分霊を勧請して玉出の産土神とし それが当社の始まりとされている とのこと
蛭児命(ひるこのみこと)については
洪水で流された西宮神社のご神体が玉出の生根神社に流れ着きこれを祀ったが その後西宮神社にご神体をお返ししその分霊を祀ったのが始まりとされています
兵庫県西宮から大阪生根神社のあたりは大きく折れ曲がった湾になっており西宮から玉出に流れ着くのはさもありなんというお話です
菅原道真公が祀られたのは近世の話
明治初年に廃藩置県により大阪の筑前屋敷に祀られていた筑前天満宮が合祀されました
生根神社の社殿は大名普請のかなり立派なものだったようなのですが
1945年3月の大阪大空襲で被災し社殿が焼失
ご神体は速やかに住吉の生根神社へ移されたため無事でした
戦後仮社殿を造ったのち1966年10月に鉄筋コンクリート建築の社殿や社務所などが復興されたそうです
石の台には「船仲」の文字があります
海の神様「住吉大社」のほど近く
船での仕事を生業としている人々からの信仰が厚いのだろうと思いました
ではいよいよ「だいがく祭り」のお話です
「だいがく」ときいて私はてっきり「大学」を思い浮かべたのですがそれは間違い
はっきりと決まっていないようですが
「台額」や「台楽」と書くそうです
毎年7月24日(宵宮)25日(本宮)に行われ両日とも日中は獅子舞や神輿渡御式など行われています
だいがく祭りは日が暮れて19:30から。
生根神社北側の公園で行われます
私が訪れたのは25日
まずは神社でお詣りをして。。
と18時頃に神社を訪れたのですが
すでに境内ではだいがく祭りが賑やかに行われていました
後からわかるのですが
現存一基とされる「だいがく」はかつては賑やかに担がれていましたが現在ではあまりにも重いのと貴重なものゆえ境内に据えられて披露されます
「だいがく祭り」として実際に担がれるのは新しく作ったもう少し小ぶりなもの
ですが境内の「だいがく」は担がれずとも 台に上がった子どもたちが力一杯太鼓を打ち鳴らし グルグルとまわる提灯のついた櫓(やぐら)をこれでもかとぶん回し 上部に取り付けられた鈴たちを力いっぱい台を揺らして跳ねシャンシャンと賑やかす大迫力!
そして実際担がれるものは「小ぶりなもの」と書きましたがそれでも重さ1トン!
それを担ぎ手の減った昨今堂々と担ぎ上げ
「だいがく」ごとぬらりと動き回る
人々の力強さは見事!
お祭りの写真も次々とお見せしたいのですがまずはそんなだいがく祭りの始まりをご紹介させて下さい
だいがく祭りの起源は古く
「清和天皇の時代(858年〜875年)に干ばつがひどくこの地の農民が住吉の竜神大海神社の前で日本六十六ケ国の一の宮の御神燈六十六張と鈴六十六個をつけた高さ十八間の櫓を建てて雨乞いの祈願をしたところたちどころに雨が降ったので農民は喜びこれに台をつけて曳き太鼓を打って氏地を巡行したのが始まり」とのこと
始まりは「雨乞いの儀式」だったようです
また近世になるとお祭り以外でも
国道開通などのお祝いごとにだいがくを出すこともあったようです
この「だいがく」
改めてご紹介すると高さ約20mの柱に78個の提灯を飾り付け 台や上の飾りなど合わせて重さは4トン!
かつては大阪市内難波から南の地域で「だいがく祭り」が行われていたようで
7.5トンとも言われるだいがくが
3基4基と各町にあり
祭りになると一基あたり80人から100人ほどで担いでまわっていたそうです
しかし戦争で焼けてしまったり廃止されたものもあり現在日本で現存するだいがくは
玉出の生根神社の一基のみ
この一基が生き残った経緯は
だいがくがお祝い事にも使われていた事が幸いしています
大阪は戦争で激しい空襲を受けましたが
当時の保管役だった岡本宗治氏が自社の岡山飛行場建設に伴って「だいがく」を岡山に持って行きそのまま農家に預けて終戦を迎えたため奇跡的に生き残ったものなのです
その現存する「だいがく」と
祭りの様子を描いた
「板絵彩色玉出のだいがく祭礼図」2面が
大阪府指定有形文化財に指定されており
絵は著作権の関係でブログにあげることは出来ませんが
これを読み終わったら是非ネットで検索してみて下さい
あれだけの重さのあるあんな大きなものをこれだけ並んで曳き廻して 太鼓を打ち 鈴を鳴らして広い氏子地を巡行していたのかと思うと 静かに見える絵から当時の人々の重く熱いざわめきが地から湧いて聞こえるような気がします
私はこれを大阪中之島美術館で見たことがあるのですが正直「なんかカワイイ絵」という印象でした
ですがその祭りを知った今改めて見ると
これはなかなかの迫力だと感じずにはいられません
ちなみに生根神社にある「だいがく」は
先ほどお伝えした大阪府指定有形文化財の
第一号の栄誉を頂いています
なみいる文化財の宝庫の大阪で
一号とはすごいと思います
その経緯を是非知りたいものです
さて こちらは18時頃の境内の様子
奥にある大きなものが文化財登録されている「だいがく」
手前にあるのは子どもたちが曳く小さなだいがくです
こちらを担いで本殿前で奉納されていらっしゃいました
この日境内では笹娘さん達によって笹の授与がおこなわれ 古い笹はこちらに納めます
トリビアとしては毎年浜村淳さんがだいがく祭りに訪れられるようで彼の歌碑がだいがくの横にあります
本殿は建て直されたもので鉄筋コンクリート造ですがガラスの扉がついていたりなかなか素敵な本殿でした
お祭りの案内にかかれているように獅子舞や催太鼓など町を練り歩くようですでに巡行を終えたものが神社脇に置かれていました
本殿近くに作られた舞台では地元の方々がかわるがわるだいがく音頭の歌を唄いそれに合わせてだいがくの太鼓が打ち鳴らされます
祭りの雰囲気はユーチューブなどでも見ることが出来ます
エーサジャ ヨイヤサージャの掛け声のあとに甚句形式(七七七五)の歌が唄われます
では文化財となっているだいがくがどのようなものか写真で詳しくご紹介します
だいがくはまず台と曵き棒と呼ばれる担ぐための棒が紐で組まれています
この組み方は代々伝わるもののようです
大昔海が近く船も造られていたであろうこの地において 木や布で船や帆を使って航海していた頃には紐で丈夫に固定する技術はかなり発達していたのではないかと想像が膨らみます
その上に竹の棒を組んだものに提灯がぶら下げられ夜になるとあかりが灯されます
さらにその上にはヒゲコと呼ばれる傘状のものがつけられており
一番上には祈祷の際に浄める神楽鈴(かぐらすず)がついています
ところどころヒゲコの紙が破れていますが台を激しく揺らして鈴を鳴らす際に破れて落ちるヒゲコの紙は拾うとご利益があるそうです
半被には櫓上部に取り付けられた「ヒゲコ」と「鈴」が描かれています
台から上は回せるようになっていて子どもたちが汗いっぱいになりながらグルグル回していました
立派な太鼓は一打ごと本気で打ち込まなければいい音がでません
常に全力で打ち続け 交代の時にも音を切らさぬように気を配りながら叩く子どもたちは一人前の男のような頼もしい顔をしています
太鼓に掛けられた豪華な刺繍の飾り布
太鼓台には義経と弁慶らしきものが彫られていました
本物のだいがくを明るいうちに詳しく見ることができました
さてさて もうすぐ公園で「だいがく祭り」が始まります
公園にはすでにたくさんの人
実はだいがく祭りは必ず毎年天神祭の花火の日と重なります
まぁ普通 大阪の人達は天神祭の花火大会を訪れるかテレビでビール片手に楽しむもの
正直この日電車でこの地を訪れた私も
浴衣姿の人々と逆行して玉出に向かいました
ですがこの一帯では天神祭もなんのその
だいがく祭りを年に一度の楽しみに地域の方々が盛り上がって楽しむようです
公園横の広場に準備されている本物のだいがくより少しだけ小ぶりなだいがく
それでも1トンあり本番は台の上に太鼓叩きの人を乗せて力いっぱい太鼓を打っているのを担ぎ歩きます
絶対に昔はなかったであろう
担ぐ人たちに優しい「肩当てパッド」つき
広場には男性が担ぐ男だいがくと
女性が担ぐ女だいがくが置かれていました
よく見るとだいがくの頂点に
男 女それぞれ印が掲げられています
だんだん担ぎ手も集まってきました
この日太鼓役の若者が太鼓の練習を始めると燻し銀のベテランがやってきて「ちゃうちゃう!こうやって打つんや(想像)」とばかりに指南を始められました
若者「ドトン」
燻し銀次郎(仮)「ドドーンっ!」
それはもう音が全然違います(笑)
それを見るにつけ長丁場の太鼓叩きですが始まったら全身全霊かけて叩き続けなければいい音が出ないだろうことがヒシヒシと伝わってきました
だいがくは大きく高く
風をまともに受ける形は安定も悪いので
ぬらりくらりと動きます
歌も甚句形式で淡々と唄われるので掛け声のエーサジャ ヨイヤサージャの所以外は迫力に欠けます
祭りを一番盛り上げ 締めるのは太鼓の音。
それだけに本気のドドンッ!が必要なのです
ガンバレ 若者!
さてさていよいよ祭りが始まります
公園は少し蹴ると砂が猛々と立ち上がるので
足場を固めるためにホースで水撒き開始
始まりの合図とともに
ムクリとだいがくが担ぎ上げられました
唄い手の方がマイクを持ってだいがくと程よい距離を保ちながらだいがく音頭を唄います
それに合わせて男だいがく女だいがくが近づきつ離れつ逢瀬のごとく動き回ります
近づいてくると大迫力です!
途中休憩もあり まだまだ祭りは続きます
休憩のあいだは近くに寄って写真を撮ってもいいですよとアナウンスがありました
男だいがくを 担ぎ手の方の「語る背中」と共に一枚撮らせていただきました
「あの〜担いでいた皆さん!本部テントに近隣の◯◯鍼灸院の先生がスタンバイして下さっていますので痛めた方は本部テントまでお越し下さい!」
なんて地元の温かい空気感満載のアナウンスも聞こえて後ろ髪を惹かれますが
境内に置かれただいがくが暗くなってどんな様子かも気になります
境内に向かう道は屋台と人でいっぱい
屋台越しに高く聳えるだいがくは
本当に美しく素敵でした
やっぱりだいがくは夜が一番美しい
圧巻の迫力に唄 太鼓 鈴の音 人々の声
これが天神祭にも負けないこの地域の人々の連綿と続いてきた祭りなのだと
この地に生きる人々の誇り高い歴史の一幕を見せていただいた気持ちになりました
大きな櫓を鈴の音と共に回します
エーサジャ ヨイヤサージャ
いつまでも続く人々の熱気に包まれながらも
そろそろ家路につかなければなりません
ありがとうございました
一礼して祭りの鈴の音とともに
駅へと向かいました
雨乞いのため始まったお祭り
なんとか天の神様に私たちが困っていることを知らせたい
天を突いて雨を降らせたい
そんな思いから
この高く立派な櫓作りが始まったのでしょう
鈴をつけ 賑やかにして
歌を唄って 神様にお願いし
人々の想いを 届けたかったんだろうなぁ
そんな古の人々に想いを馳せます
それにしても
あの大きなだいがくが何基も練り歩いていた時代を見てみたいものでした
ゆらり大きく町を練り歩く何基ものだいがく
流れる提灯の灯りは夢のような夜の記憶を
人々に残したことでしょう
だいがくや ぬらりと曳かれ 夏の夜
エルスカ