美味しいしあわせ

くつろぎのひと時のお料理やお菓子とお酒 季節の花と緑

幼い頃の思い出「多田神社」 武家政権の源


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兵庫県川西市にある「多田神社」は 

それほど有名な神社ではありません

が その歴史は古く 

御祭神は 日本の歴史の大半を占める

武家政権

を創り上げた「清和源氏」の祖 

源満仲(みつなか)ら 五公です

清和源氏」とは

第五十六代 清和天皇の血をひく子孫で

日本にとって 初めて武士が政治を行う

鎌倉幕府を立ち上げた 血筋

その後 武家が政治を行う歴史は

明治維新まで続きました

多田神社

そうした 政治を治める武家からも

武家の棟梁」(軍を率いるトップ)

といわれた 

清和源氏」を祀る神社なのです

こちらの神社

実は 私の実家の氏神さまです

小さい頃は そんな立派な神社とも知らず 

子ども達の遊び場所ともなっていたこの神社

前に流れる猪名川では 

友達らと虫取り網を持って川の魚をすくったり 石積みをしたりとよく遊んだものでした

多田神社での一番の思い出は「初詣」

いつもは「早く寝なさい!」といわれるけれど 大晦日だけは特別な日で

小学校の中・高学年の頃には 毎年お友達と大晦日多田神社に向かい 

閉ざされた門の前で新年を待ったものでした

友達と夜遅くにお外に出る ということだけでワクワク!

そのうち除夜の鐘がどこからともなく聴こえ 

年が開けると門が開いて初詣となります

大人たちに混じり ザワザワと新年の興奮を感じながら年が明けるのを待つ

私にとって 多田神社の新年を待つ「門」は

ニューヨークのタイムズスクエア

同じ場所でした(笑)

また15日のとんどの日(左義長)には お善哉が振る舞われ 

並んで友達らと食べた思い出も。。

自転車で少し離れた他の神社も回って

「どちらのお善哉が好きか」

なんて言い合いながら 

自転車で雪積もる寒い中 走り回ったのも 

特別な思い出です

中学校の時には同級生で 今では有名なDJになっていらっしゃるIさんと ここに来て

夏休みの自由研究を共にしたことも 

私の大切な思い出

帰りにこの赤い橋で もう一人の友人と3人 

通りがかりの人に写真を撮ってもらいましたf:id:habbule-no-neko:20230621105501j:image

橋の奥に鳥居があり

そこから神社の入口は始まっています

橋を渡って長い階段を登ると門があります
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「南大門」 県指定重要文化財

門には源氏の家紋と 徳川家の「葵の御紋」

この紋所が目に入るとか入らないとかのアレが描かれています(笑)

源氏の御紋は「笹竜胆」(ささりんどう)

竜胆は日本のほぼ全域で見られる多年生の野草で 釣り鐘型の鮮やかな青紫の花が上を向いて咲きます

源氏の紋は 竜胆の花が3つ 

その下に大きく五枚の葉が描かれていますが

これは「笹」ではなく笹に似た竜胆の葉です

清和源氏を祀っているのに なぜ徳川家の紋が共に描かれているのかについては理由があります

そのお話をするのに まずは多田神社の由緒についてご説明させて下さい

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多田神社 由緒」

天禄元年(970年) 清和源氏の祖 摂津守 源満仲

(みつなか 清和天皇の三代先の子孫 源頼朝義経の祖先)が 

摂津の国司となった折 

どこに居を定めるか悩んだ末 摂津一の宮である 住吉大社に27日間参籠した所 

満願の日に住吉大明神が夢枕に立って お告げを下さいました

お告げでは 夢枕に立った住吉大明神から白羽の鏑矢(かぶらや)を与えられ 

「矢の落ちた所に居を構えるように」

とご神託を賜ります

そこで満仲公がお告げに従って虚空に矢を放つと 矢は火を吹いて飛び去り 多田荘(ただのしょう)の沼に棲む「九頭の竜」に命中します

満仲公はこれを奇縁として 

多田沼を切り開いて新田となし 

自らもこの地に城を築いて住んだといわれています   BY アサヒ飲料

これが 多田の地の始まりです

「BY アサヒ飲料

のわけは ブログの最後にお話しします

(勿体ぶるわけではないのですが 話がややこしくなるので とりあえず先に由緒をご説明させて下さい)

とにかく

そのご神託によって多田の地が開かれて 

後に「清和源氏 発祥の地」

と言われることになります

ここに居を構えた満仲の末子 

源賢を開山として

初めは天台宗寺院 多田院鷹尾山法華三昧寺 

通称「多田院」が建立されました

満仲が亡くなった折には 

廟所と満仲像を祀る御影堂が建立され 

清和源氏の「祖廟」とされましたが 

時が経つにつれ 

多田源氏の没落と源氏将軍家の断絶により衰退 

鎌倉中期に鎌倉幕府の執権 

北条泰時が多田荘の地頭となると 

以降は得宗家によって 地頭職が相伝されていきます

そんななか 幕府は廃れた多田院社殿を

大規模復興させる事とし

1273年(文永10年) 西大寺の忍性(にんしょう)を造営奉行にし 再興させます

ここから 天台宗から真言律宗へと転じることとなります

室町時代になると

清和源氏の流れをくむ将軍 

足利尊氏が 崇敬を厚くし

幕府の保護をうけるようになります

そして 歴代の足利将軍が亡くなると

この場所に分骨が 埋葬されました

しかし1577年 戦国時代には 

織田信澄(信長の甥)の軍により社殿が焼失 

以降 荒廃しますが

江戸時代に入り 

姫路藩主榊原忠次他 また多田院御家人の子孫などによって 社殿の寄進や修復が行われます

何より 

清和源氏を称した徳川将軍家の崇敬が大きく 

1665年(寛文5年)4代将軍 家綱によって寺領500石が寄進され 

1667年には本殿 拝殿 随神門などが再建されました

そして 足利家に倣って 歴代徳川将軍家の位牌が代々本殿に納められることとなり

1695年(元禄8年)には 

5代将軍 綱吉による社殿の修復が行われ 

徳川家との強い結びつきから「西日光」とも称されました

そして 清和源氏の祖 満仲に

正一位多田権現」

の神号が贈られると 次第に多田院は寺から

神社の色合いが濃くなっていきます

明治時代になると

政府による「神仏分離令」により 

仏教寺院であった多田院は 従来の 

満仲 頼光 頼信 頼義 義家の五公を祀る神社へと移行

その際 

南大門にあった金剛力士像が川西市満願寺に 

境内の鐘楼は奈良県西大寺に移されました

現在

多田神社」は 国指定史跡 

「宝物殿」は 国登録有形文化財 

「本殿」 「拝殿」 「随神門」 「文書」などが 重要文化財となっています

BY ウィキペディアより抜粋

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こちらは 満仲の長子で清和源氏興隆の礎を築いた三代目の源頼光(よりみつ)が 

弟らと共に 大江山に夷族討伐(いぞくとうばつ 夷族とは野蛮な人という意味)に行ったという話から作られた唄

頼光の功績を 語り継いでいます

(酔い潰してやっつけちゃうのは 日本昔ばなしっぽくてなかなか示唆に富んでいます

タダ酒ほど怖いものはないってことですね

多田だけに(笑)うまいっ(汗))

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さてさて

南大門を裏から撮影 

百度詣りの石があります
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「拝殿」 

奥に御本殿 御廟所などがありますが 

こちらは禁足地となっています
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お賽銭を入れる箱にも 源氏の家紋と徳川家の家紋があしらってありました

なぜ 徳川家の家紋が?という謎は 

先ほどの由緒の通り

現在の拝殿は 

1667年に家綱公によって創建されたものです

桁行7間 梁間3間の大規模な入母屋造り

(いりもやづくり)

檜皮葺屋根(ひわだぶきやね)

どれだけ徳川家が力を入れて 再興に尽力したかが伝わります
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禁足地の中には お寺であった頃の檀家である 島津家が贈った唐椿の木がありました

島津家が檀家って 檀家の格が違いますf:id:habbule-no-neko:20230621110034j:image

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なんだか凄そうなものが入っていそうな蔵がありました

この蔵も装飾が凝っています
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徳川恒孝御手植えの松 と 秩父宮妃殿下御手植えの松

その奥に「遥拝所」として大きな石が祀られていました
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こちらの石には紙垂(しで)がついた矢のようなものがささっており

まさかとは思いますが 満仲が放った矢のごとくしっかりと埋まっておりました

不思議(笑)

ここから振り返ると 新緑の紅葉が美しい
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古い瓦などが多数 建物の床下に無造作に置かれていました

歴史的価値がありそうです
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解説付きで多田院の鳴動について書かれていました

大きなことが起こる前触れに 鳴動が起こるそうです

でもこれ 地質的な理由によるものなのでは と思うのですが 

その理由は後に書く アサヒ飲料の件とつながってきます

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「随神門」

私の記憶では 大晦日に門の前で待っていたのは この門だったように思います

この門の先頭で 今かいまかと 新年をワクワクして待っていました
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「宝物殿」 

こちらは 国登録有形文化財となっています

ん?

なんか新しそうだけどね と思ったあなた

私もそう思ってスルーしかけましたが 説明を読んで納得

昭和4年に建て替えられたこの建物 

中には源家の宝刀 鬼切丸 甲冑 刀剣 書画 古文書などなど 数千点が所蔵されています

コンクリートで建てられた建造物ですが きちんと構造躯体としては伝統的な社寺建築を踏襲しています

災害や盗難を考えての建て替えでしたが 

奇しくも第二次世界大戦が勃発した折には

県下の国宝を疎開させる場所として秘密裡に選定され 813点もの国宝 重要文化財がこの宝物殿によって難を逃れ 無事終戦を迎えることが出来たという建物なのです

当時 建て替えを決意された宮司の福本賀光さんも まさかそのような大役を担う建物になるとも想像していらっしゃらなかったでしょうが はからずも先見の明アリとなりました
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「この紋所」で有名な黄門様 御手植えの銀杏です
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堅牢な扉 
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檜皮葺き風に作られた屋根 

手がこんでいます

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東門に向かう途中に奉納された方々の「玉垣」(たまがき)がありました

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アサヒ飲料三ツ矢サイダー玉垣もあります

赤い三本の矢がひと際目立ちます

昔 この広場で遊んだ記憶が微かにあります

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紅葉の向こうに見える川の上に渡されている鉄のパイプは 上水を川の反対側に渡すためのものではないかと思います
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こちらが東門
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江戸時代に再興された折に建てられたもの

高麗門であるが 鳥居のような形で建てられており屋根妻(2つの屋根が山の形に合わさった側)は 本来正面からは見えず裏側に見えるものだが 正面から見えているのは大変珍しいとのこと

高麗門というのは

武家や公家の屋敷にある門形式に使われる「薬医門」というのを簡略化したもの

薬医門とは 元は門扉がなく 医師の家の門として病人の往来を妨げないことの表明として使われたという話もあるのですが

高麗門は

二本の鏡柱とよばれる柱の上に冠木(かぶき)を渡して切妻屋根をのせ 左右の鏡柱と裏側のそれぞれの控柱(ひかえばしら)の間にも小さな切妻屋根をかぶせた門のこと

裏側にある控柱との間に切妻屋根をかけるので本来なら表からは見えないのですが 

こちらでは鳥居の形にしたからか正面から妻(屋根の合わさった部分)がみえています

写真を見てフムフムとなっていただければ有難いのですが。。

あらためて東門から中に入ります

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南大門付近に巨大なムクロジの木と奥に 惣社(そうじゃ)六所宮がありました

惣社とは 一定地域の神社の祭神を1か所に勧進して祀ったもの

そもそもまとめて祀るのは 祭祀を省略化するためであったけれど

平安時代後期には諸社を国府(中央政権から派遣された国司が政務を執る官庁域)近くに合祀し そこで国司の着任儀式を行っていたため国衛行事の重要な施設となっていた

とのこと

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はあぁぁぁ。。

盛りだくさんっ!歴史が長すぎて紆余曲折ありすぎて神社一つと思えない情報量でした

この日は昨夜までの雨から一転 晴天の日和で湿度も高く 日差しも熱い

喉 カラカラよぉ。。と そこに救いの三ツ矢サイダーの自販機が♬

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飲みたい!

けど 書いてあるのが気になるっ(笑)

ナニナニ?

三ツ矢サイダー発祥の地が多田で

それは平安時代に遡り 九頭龍伝説と鷹狩り伝説があるとのこと

ふぅん あの三ツ矢サイダーがねぇ

と思いながら推しの三ツ矢サイダー。。

ではなく気になったクラフトコーラをガチャンと購入
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横にあった休憩所のような場所でプシュ♪

はぁぁ!幸せ そして美味し!!

と思いながらそこにあった説明を読みました
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九頭龍伝説とは 最初に書いたお告げに従って矢を放ったらこの地に住む九頭龍に命中し

多田の地に居を構えたというもの

その矢を探すのに功があった孫八郎に満仲は矢羽根紋と三ツ矢の姓を授けたとのこと 

三ツ矢の家は多田源氏重臣として また多田院の筆頭御家人として明治時代まで栄えたようです

ちなみに

三ツ矢サイダートリビア

三ツ矢サイダーのロゴにある9つの泡はこの「九頭龍伝説」をもとに泡を9つ描いているとのことです

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「鷹狩り伝説」

満仲公が鷹狩りに出かけ 鷹に向かって矢を射た所 羽をかすめて鷹に傷を負わした

その矢は そこにあった岩につき刺さる

その岩から清水が溢れ 鷹がその水を浴びた所たちまち回復し 力強く羽ばたいた

その清水こそ三ツ矢サイダーの源泉 平野水であった

あ!

もしかしたらあの遙拝所にあった岩に刺さった矢は 平野水の源泉湧く岩に刺さった矢のオマージュじゃない?

ナルホドね♫

と思いながら続きを(笑)

1884年明治17年)かつて銀山と温泉で賑わった平野の地(川西市多田)で三ツ矢サイダーが産声を上げた

当時の商品名は「平野水」

湧き出る天然硬水を瓶に詰めて販売したもので広辞苑にも「平野水 炭酸水の異称」と掲載されている

商品化のきっかけはイギリスの理学博士が理想的な硬泉なりと称賛したこと

この理学博士はウィリアム・ガウランド氏

1872年から当時の造幣寮(今の造幣局)のお雇い技師として来日していた方とのこと

三ツ矢の商標を決めるに当たっては 三ツ矢家 多田神社宮司など地元の有力者が協議の末 3つの矢が中心に向かって配列する形に決まったとのことでした

ゴクゴク

そういうことなのね!と一息つき

あらためて 境内の静けさに

しばし 木々の葉をさらう風の音を聴いて

多田神社を後にしました

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この門をくぐる前と帰る時では  

まるで心持ちが違います

懐かしさ 

だけではない この神社の歴史を識った今

改めて 懐かしさと共に 

日本の歴史を作ってきた武士達の

心の源に触れる場所であったのだと 

感慨を覚えます

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満仲公も眺めたであろう川の流れは

今も変わらず轟々と この地を駆け抜けていきます

時の流れと共に。。

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そう言われれば よその神社に比べて

随分と広く 周りの鎮守の森も広大です

小さい頃には分からなかった神社の歴史を知り わかることも多々あります

昔はただ手を合わせ 何気なく拝んでいた

多田神社

でも

案外 信仰ってそんなものかもしれません

ありがたいと感じて拝む

歴史やその史実が本当か

なんていうのは

大人になって 頭で理解するもの

頭で理解すると神様は消えてなくなります

それでも感じる何かを信じて

それに恥じない生き方をする為に拝む

「願いが叶いますように」

ではなく

「あるべき道に行けますようお導き下さい」

あくまで生きるのは自分だから

その生き方を律する事が出来るよう

神様に祈ります

そして

自分の幸せを願うのではなく 

周りの幸せを祈る

家族や大切な人がそれぞれに

「自分らしく」生きられるように

たとえそれが今の望みとは違っていても

その人にとってそれが一番 

いい人生となりますように

心と身体が健やかでありますように

その事を史実や御神体が何かではなく

何か一番美しく尊いものに

祈りたいと思います

懐かしい思い出の地に触れて 改めて想う

大切な時間となりました

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