美味しいしあわせ

くつろぎのひと時のお料理やお菓子とお酒 季節の花と緑

大阪市中央公会堂

ひょんなことから

母と奈良に住む叔母たちの4人を連れて大阪を案内することになりました

その模様は後日 

実現してからブログに書くつもりですが

連れていくのは名建築揃いの中之島です

我が家からは近いようで遠い中之島

少し詳しくなりたいと 今回特集を組んで

書くことで学ぼうと思い立ちました♫ 

大阪の中之島は私にとって知的な大人の街

日本を代表する企業の数々 新聞社 放送局

日銀 音楽ホール 美術館 府立図書館 

市庁舎 そして 街のシンボルでもある

大阪市中央公会堂がありますf:id:habbule-no-neko:20240118230942j:image

中央公会堂は市民のための公会堂

一人の大阪市民のノブレスオブリージュ

(高い社会的地位にいるものが行うべきこと 慈善を行う美徳)から始まった

全ての市民に開かれた建物です

国指定重要文化財でありながら会議室は全ての人に開かれ1300円から利用できます

私の友人はここでピアノの発表会を開こうかと一度見学に訪れたと言っていました

(色々あって別の場所になったらしいけど)

他にも結婚式の披露宴や各種パーティーなどにも使われています

また地階にあるレストランは広くてオシャレオムライスが有名で私も大好きなお店です

あまり知られていませんが地階には公会堂グッズを販売している所もあり私のオススメはモロゾフの焼き菓子です

缶に公会堂が描かれていますf:id:habbule-no-neko:20240120090856j:image
f:id:habbule-no-neko:20240119184359j:image

大阪市民なら行ったことがなくても

必ず知っている中央公会堂

まずは ここから学んでみたいと思いますf:id:habbule-no-neko:20240118231517j:image

私にとっての中央公会堂はいつも阪神高速の少し高い場所からチラリと見下ろすもの

夕暮れ もしくは夜にライトアップされた姿です

実家から自宅に帰る時 阪神高速を使うので中之島のあたりで眼下にチラリと中央公会堂が見えます

その景色を見ると

あぁ大阪に帰ってきた

と思うのです

大変美しく威厳に満ちた建物ですが

これは一人の男の哀しい物語と共に語られなければなりません

その男とは岩本栄之助

f:id:habbule-no-neko:20240118231633j:image

株式仲買人であった彼は「北浜の風雲児」とも呼ばれた時代の寵児でした

彼は大阪の両替商「岩本商店」を営む

岩本 栄蔵の次男として1877年(明治10年

大阪の船場で生まれます

市立大阪商業学校 大阪清語学校及び明星外国語学校で商業学及び外国語(英語 フランス語 清語)を学び卒業

1904年から始まった日露戦争に出征して陸軍中尉となり 凱旋後 従七位に叙し勲六等単光旭日章を授けられます

戦争は開戦1年後の1905年にアメリカが仲介に入りポーツマス講和会議が開かれ日露講和条約が締結され終戦

1906年明治39年)3月 

かねてより家業を手伝っていた栄之助は早逝した兄に代わり父栄蔵の跡を継ぎ株式仲買人となります

株式仲買人となった彼は早速頭角を現しますが翌1907年(明治40年日露戦争終結に伴う株の大暴騰が起こります

この時手堅く買方(かいかた)に回っていた栄之助は助かりましたが

まわりの仲買人は売方(うりかた)にまわっていたため北浜の多くの仲買人たちが破産寸前まで追い込まれました

彼らに懇願された栄之助は損を覚悟で売りに転じその結果株価は大暴落

周りの仲買人を破産の窮地から救った栄之助は「北浜の恩人」「義侠の相場師」と称えられ大阪の経済界で一躍時の人となります

また「学問せなあかん」が口癖の栄之助は 取引所で働く少年たちのために私財を投じて塾を作りその行いは全国に新聞などを通じて知られることとなり彼は大いに大阪市民からの尊敬を集めました

「北浜の風雲児」と言われたのもこの頃です

人の為に生きる

後にその人柄故に己を追い込むこととなるのですが それはもう少し先の話

仲買人になって3年後の1909年(明治42年

栄之助は渋沢栄一率いる渡米実業団に加わり 当時世界経済に台頭しつつあったアメリカ合衆国に渡ります

アメリカで見聞を広げるなか鉄鋼王として知られるカーネギーなど事業で成功した富豪らの慈善活動を見聞きし大いに触発されます

そしてそんななか米国にて

父 栄蔵が病死したとの一報を受けます

帰国してのち 1911年(明治44年)3月

当時33歳だった栄之助は父の供養も兼ねて 相続した資産と合わせて自身の私財から金百万円(現在の価値で数十億円)を大阪市に寄付すると発表します

多額の寄付をどう使うか

渋沢栄一ら多くの人が意見を出し合い

「桜並木」「育成資金」「公会堂」

と三つの候補案に絞られますが

当時 米相場が盛んだった中之島蔵屋敷

(詳しくはブログ内の「アーチ型水門」に関するお話をどうぞ)

廃止されたあとこの一帯を再開発しなければという話が持ち上がっており

最終的に市民の誰もが利用できる

「中央公会堂」を建設することとなりました

同年4月 府市長などと話し合いが行われ

その結果 財団法人を作り一旦すべて委託し公会堂が出来たあと寄付する事とします

8月 内務大臣の許可が降り

10月には寄付金が財団法人公会堂建設事務所に引き継がれました

財団法人の建築顧問には

建築界の大御所 辰野金吾が迎えられました

辰野金吾といえば東京駅の設計者として有名な方

日本の近代建築の祖でもあります

すべての建築家の根を辿ると辰野金吾に行き着くほど彼から日本の近代建築は発展していった人物です

関西では中央公会堂そして私の両親が結婚式を挙げた奈良ホテルも彼の設計です

その彼を顧問に迎え 栄之助の志は中央公会堂完成へと思いを引き継がれたのでした

早速辰野金吾は弟子たちに設計案を出させてコンペを行います

13人から出された案を互選しあい

最終的に選ばれたのは最年少29歳岡田信一郎の作品でした

これが岡田のデビュー作となり 

後に彼は鳩山邸 旧歌舞伎座 明治生命館など素晴らしい建物を設計する人物となります

さて

辰野金吾は岡田の原案を活かす形で手を入れ

1913年(大正2年)6月に着工

1918年(大正7年)11月17日に完成させます

中央公会堂はその後100年を超えて

誰もが利用出来る場所として

今もなおその役割を果たしながら

現存しています

しかし実は 寄付をした岩本栄之助は

その完成を待たずに亡くなっています

ピストル自殺でした

彼は公会堂が着工される前年の1912年から

1914年まで「大阪株式取引所仲買人組合」の委員長や「大阪電灯株式会社」の常務取締役を務め(後に統合されて関西電力となる)

一旦は仲買人から引退

その後1916年(大正5年)に復帰しますが その年の第一次世界大戦の異常景気を読み誤り大損します

以前と同じくまた周りの仲買人達から助けを求められますが この時ばかりはさらに大損失をこうむることになり

番頭からは「大阪市に寄付したお金をいくらか返還してもらったらどうか」と提案されますが「一度寄付したものを返せというのは大阪商人の恥」と首をたてに振りませんでした

大損失を出した栄之助は 10月22日

すべての使用人と家族を宇治の松茸狩りに出した後 自宅の離れで陸軍将校時代に入手していた短銃で自殺を図ります

すぐには死ねず5日の間生死を彷徨いますが

享年39歳でその生涯を閉じました

危篤の5日間

北浜の仲買人ら多くの人々が大阪天満宮に夜通しかがり火を焚き祈ったそうです

栄之助の死から2年後

大阪市中央公会堂が完成します

現在中央公会堂地下1階には「岩本記念室」が設置され栄之助の銅像と遺品が展示されています

辰野金吾の監修により建てられたその建物は

定礎の文字を渋沢栄一によって書かれ

鉄骨煉瓦造地上3階・地下1階建て

意匠はネオルネッサンス様式を基調としつつバロック的な壮大さを持ち 細部にはセセッション(伝統から分離し新しい生活様式に即した造形芸術)を取り入れています

アーチ状の屋根を持ち

最上階貴賓室には松岡壽(まつおかひさし)によって描かれた「天地開闢」(てんちかいびゃく=世界の始まり)が天井と壁面を彩る

外観も内部もすべてが美しい建物ですf:id:habbule-no-neko:20240119164302j:image
f:id:habbule-no-neko:20240119164328j:image
f:id:habbule-no-neko:20240119164539j:image
f:id:habbule-no-neko:20240119164552j:image
f:id:habbule-no-neko:20240119164615j:image
f:id:habbule-no-neko:20240119164635j:image

f:id:habbule-no-neko:20240119164407j:image
f:id:habbule-no-neko:20240119164725j:image
f:id:habbule-no-neko:20240119164759j:image
ロシア歌劇団の公演 アインシュタイン ヘレン・ケラー ガガーリンなどの歴史的人物の講演にも使用されました

建物の老朽化のため1999年から2002年まで工事が行われ耐震化 バリアフリー ライトアップも施工され さらに市民に広く愛される建物へと進化しました

アーチ型の正面屋根の上には当時と変わらず富と幸運の神ヘルメスが商業繁栄を願い 

芸事や知恵の神アテナが見守っています

どんな人にも開かれたこの建物が

人々の暮らしの役にたちますように 

一人の市民の思いから始まったこの物語は

100年を超えて 今なおさらに

その美しさを増して人々と共にあります