春の雨はどこか頼りなく優しい
大阪に単身赴任となり初めて迎えた春浅い雨降りの夜
ふらりいつもと違う通りで小料理屋を見つけた
湿った夜に独り寝の住処に帰るのもつまらなく小料理屋の引き戸を開けると湯気立つ厨房のあるカウンターの向こうから品の良い女将が一人切り盛りしてるよう
「いらっしゃいまし」
と初めての客と思える私にはにかんだような柔らかい笑顔を向けた
「一人なんだけど」
と言うとどうぞこちらへと奥にある小上がりの座敷ではなくカウンターの真ん中の席へ案内された
私の他に客はなく蒸し器のシュウという音が小さくして出汁のいい香りが漂っている
言われるままカウンターの席に座り程よく温かなおしぼりを受け取ると
「もうすぐ団体のお客様がお見えになるんですがこの雨降りで少し遅れていらっしゃるようで どうぞごゆっくりなさって下さいましね」
客は私一人だけかと心細かったがそのうち賑やかになるのだろう
それまで昔はたいそう美人だっただろうこの女将さんと一杯やるのも悪くない
そう思い瓶ビールを注文した
どうぞとカウンターの奥からキンキンに冷えた瓶ビールを開けてコップが置かれる
コップもしっかりと冷やされていて一杯目を女将さんがカウンター越しに注いでくれた
初めての店の最初の一皿をどうするか
期待を滲ませ手書きのお品書きに目をやりながらグイッと一口ビールをあおる
「山の芋 若布 大葉の三杯酢」
三杯酢という文字に心が躍った
男の一人暮らし
そういえば久しく酢の物を食べていなかったことに気がついた
女将さんに少し慌ててこの三杯酢のをと注文する
昔美人の女将はクスリと笑い 少々お待ちくださいませねと冷蔵庫から山の芋を取り出し皮を剥きはじめた
まな板の上で山の芋がシャクシャクという音をたてて切られてゆく
その心地よい音を聞きながら
コップのビールを飲み干した
☆レシピ☆
「山芋 若布 大葉の三杯酢」
(材料)
山芋 若布 大葉を適量
〈調味液〉
三杯酢とはお酢 醤油 砂糖(味醂)を一杯づつ 同量を三杯合わせたもののこと
すべて同量で適量合わせて下さい
私は関西なので薄口醤油を使います
(作り方)
・山芋は皮をむいて短冊に切る
・ワカメは乾燥なら水で戻し 新鮮なものなら水で洗い 軽く茹でて3センチほどに切る
・大葉は細切りにする
・ボウルに適量お酢 薄口醤油 砂糖を合わせて味見をし切った材料すべて入れて和える
ちなみに私は鎌田のだし醤油を使っています
普通の薄口醤油なら少し鰹節を入れて土佐醤油風にしても美味しい
少し柚子なんか足すと更に上等なお味になります
お好みの器に盛り付けて召し上がれ
男の人って案外酢の物がお好きなんですね
亡くなった主人もこの味が大層お気に入りでした
そういって見やったカウンターの隅に置いてある写真立てに亡くなったご主人とおぼしき中年の男性の写真があった
驚いたことに少し日に焼けた精悍な顔立ちのその男に見覚えがあった
かつて大学で同じゼミだった田宮という男
確か卒業間近 皆が卒論を仕上げるため徹夜で実験にあけくれている頃にフイと姿が見えなくなった
風の噂で良いところのお嬢様の彼女と駆け落ちしたのだと聞いた
もう亡くなって10年もたちますけどあの日もこんな霧みたいな春雨の日でしてね
ちょうど今日が命日なんです
あら御免なさいこんなしんみりした話
そういって彼女は慌てて空のままのコップに二杯目のビールを注いだ
思ってもいなかった彼との意外な再会に心が波立つ
と ガラリ店の戸の引かれる音がして
「いやぁ遅くなって」
常連とおぼしき高齢の男性が数人
霧雨に濡れて賑やかに入ってきた