
地名にもなっている大阪の「四天王寺」
四天王寺建立の元になったのは社会で習った「丁未(ていび)の乱」です
戦の名前はすっかり忘れていましたが内容はこんな感じ
かつて日本に仏教が入ってきた時代
蘇我馬子らが勝利したことから日本に仏教が広まることとなった
うんうん 何となく覚えています
で、その戦は大変激しい戦いとなりましたが
当時14才だった崇仏派の厩戸皇子(うまやどのおうじ。後に聖徳太子と言われる)が窮地に陥った際木彫りで四天王像を彫り「この戦に勝ったらば必ずや四天王を祀る寺を建てましょう」と誓い勝利したことから四天王寺が建てられたそうです
建立されたのは593年。
「飛鳥寺」(596年)と並んで日本最古の寺院とされています
ちなみにその当時
そう今も寺社仏閣の建築補修を行う建設会社あの「金剛組」です
創業は578年
聖徳太子が招聘した宮大工が始めた
世界最古の現存する企業です

お寺の歴史はブログ内検索欄で「四天王寺」と検索していただくと詳細に書いています
そちらも合わせてお読みいただけると更に面白いと思います


お気づきだと思いますが、日本最古のお寺と言うわりに比較的建物が新しいのは
四天王寺が数多の災禍に遭っているから。
それはもう可哀想なくらい焼けています
にも関わらずその都度立派に再建されてきたのはひとえに仏教を日本に広めた「聖徳太子」への人々の想いがあったからではないでしょうか。
聖徳太子の人柄は様々な事から垣間見えます
聖徳太子(厩戸皇子)は四天王寺を建てるきっかけになった物部守屋(もののべのもりや)との戦いで勝利をおさめましたが物部氏一族は古来より地域の豪族で当時も位の高い地位におりました
また物部守屋氏は、実は蘇我馬子の妻の兄で聖徳太子にとっては妻の母の兄にあたる人物
つまり親戚にあたります
敵対した相手ではありましたが実は四天王寺には物部氏を祀る祠がひっそりとあります
その由来は謎ですが
戦いを終えた厩戸皇子は物部守屋の魂を弔うため戦いの地、大阪の八尾市に大聖勝軍寺を建て丁寧に弔ったと伝えられています
「和を以て貴しとなす」
敵対した相手ではありましたが、「和」の心で四天王寺にも守屋氏の祠をおいたのかもしれません
また、四天王寺建立の際には寺院と合わせて病院 薬局 社会福祉施設をつくり(四箇院の制という)信仰と共に身寄りのない人や病に苦しむ人々を救う場所を作り民に寄り添う政治を行いました
大陸からの仏教を受け入れ、当時の最先端の文化を取り入れ、国を発展させ、冠位十二階で実力のある者を起用し、敵をも弔う和の心をもって民のために政治を行なった厩戸皇子
亡くなってからその偉業は数々の神秘的な話と共に語られ信仰の対象となり「聖徳太子」と呼ばれるようになったのです
そんな聖徳太子様の御霊を慰める法要が
毎年4月22日に四天王寺で行われています
「聖霊会」(しょうりょうえ)という催しで
聖徳太子のご命日を偲んで行われるものです
「聖徳太子の命日」については諸説あり
とにかく古い出来事である事と新暦旧暦が関わって余りにもややこしいので諸説ありますが四天王寺ではその日なのね。くらいに思っていただけると幸いです
この「聖霊会」は聖徳太子の死後から脈々と1400年ほど続いているもので
明治の廃仏毀釈などやむなき中断はあったものの、人々によって連綿と受け継がれてきた大切な法要です
四天王寺は行ってみると大変広い敷地に幾多の塔やお堂があるのですが、そのなかで
聖霊会が開かれるのは「六時礼讃堂」
(通称六時堂 重要文化財)
名前の由来は1日に昼夜6回にわたって諸礼讃をするから。
大きなお堂の前に広い石舞台があり
この日、ご命日の聖徳太子様を呼び起こし
様々な舞や僧たちによる声明が披露され御霊をお慰めします
(聖霊会パンフレットより)
現在お堂は耐震工事が行われ残念ながら幕で覆われています(2025年現在)
法要は12:30に開始され17:25に終了予定という大変長い時間行われるものですが
古くは早朝から夜更けまで行われていたようでこれでも随分短縮バージョン
この日も決められた法要をすべて行うと結局終了は18時前になっていました
え そんな長い時間見てて飽きない?
と、少々不安ながら訪れたのですが
この聖霊会が私に新たな愉しみを教えてくれるきっかけとなりました
それは「雅楽」!
↑(奥のオレンジの衣装を着てる方々が雅楽師の皆さん)
聖霊会の法要は、最初から最後まで雅楽隊による演奏のもと舞いや声明などが行われ進行します
四天王寺には「雅亮会」という雅楽を演奏する人々がおられその歴史は1400年以上あり
雅楽とは大雑把に言うと打物 絃物 吹物の3種類で奏でられる音楽です
東儀秀樹さんなどが有名な奏者ですが
多種多様な楽器があり篳篥(ひちりき)や笙(しょう)などがよく知られています
クラッシック音楽との一番の違いは指揮者がいないこと
一応リーダーらしき人はいるのですが奏者は阿吽の呼吸で演奏します
そしてもう一つの特徴として
楽譜がありません
いえ、正確にいうと楽譜が全くないわけではないのですがそもそも口伝で伝えられてきたもの
雅楽を学ぶときは楽器の練習からではなく
唱歌といって口ずさむことから始まります
ここで雅楽の歴史についてご紹介。
雅楽は古来より様々あった演奏をまとめて体系化したものです
体系化するのにまとめたものは3種類あり
A 国風歌舞(くにぶりのうたまい)
B 朝鮮半島や中国大陸等から伝わったもの
Aの国風歌舞には幾つかあるのですが分かりやすいものは神楽でしょうか
日本の神話で天照大御神が天岩戸に籠もった際、外で楽しく音楽を演奏して舞い踊ったところ「ナニナニ?」とちょっと扉を開けて引きずり出されたという話がありますがこれが神楽の始まりとされています
よく神社でお正月とかに巫女さんが舞い踊る演奏ですね
国風歌舞は他にも幾つか種類があるのですが
そうした古来の日本のものと
大陸から異国の人々が来て日本に伝えたもの
それらをまとめて体系化し、日本独自の音楽として演奏する人々を宮中の所属とし
が制定されました
その後平安時代に雅楽が貴族の遊びに取り入れられ新曲が追加されます
この頃が雅楽の最盛期で
10世紀には雅楽寮は楽所(がくそ)となり
京都で演奏する「宮中方」
奈良の興福寺の「南都方」
と3カ所で活躍し、これらを合わせて
「三方楽所(さんぽうがくそ)」と言います
さて
その後応仁の乱が勃発
都は荒廃し、京都の宮中楽所は散り散りになってしまいました
世の中が不安定になり雅楽も衰退しますが
そのことから現在、雅楽を演奏する際に張られる幕には織田信長の家紋である織田木瓜(おだもっこう)が描かれています

時は移り
明治の世になると都が東京に遷都されます
それに伴って宮内庁式部職楽部が設置されて主だった奏者はまとめて東京に移りました
残った人々はそれぞれの地域で雅楽を続け、現在も「三方楽所」として活動しています
四天王寺楽所はその際主だった人々が東京に行ったことで断絶の危機に陥りますが
明治17年に民間から再興の機運が高まり
「雅亮会」として再び活動が始まりました
雅亮会では古来より勤めてきた四天王寺の「聖霊会」をはじめ様々な行事を務め
コンサートも開き活発に活動が続いています
現在、宮内庁式部職楽部が「雅楽」を伝統的なものとして継承されていらっしゃいますがそこでは演奏されない曲が四天王寺の古来より伝わる曲として雅亮会で伝承されたりしています

↑「聖霊会」が始まるにあたり阿行(あぎょう)・吽形(うんぎょう)の師子の行列が露払いをする
※通常、獅子と書きますが伎楽曲を指す時は師子と書くそうです

「聖霊会(しょうりょうえ)」では
ご命日の聖徳太子様に捧げる舞や声明が
「雅亮会」の演奏と共に披露されます
↑衆僧(しゅそう)によるお声明
私の大好きな散華(さんげ)も行われます
散華とは法要や仏事の際に仏様や菩薩を供養するため蓮の花を模した紙の花をまくもの。
複雑な2曲のお声明を同時に唱えます
↑千と千尋の神隠しにも登場する「蘇利古(そりこ)」の雑面(ぞうめん)をつけた舞
お太子様は蘇利古の霊威に感応されてお目覚めになります
↑子どもが舞う「胡蝶」
他にも仏法を説く鳥の鳴き声を表す銅拍子(どびょうし)を持った「迦陵頻」(がりょうびん)という役もある
途中御供物を運んだりする役目もあります
↑法要を締めくくる「太平楽」
15キロ以上ある重い装束で一時間近く舞う
勇壮な武人のようですがそこに担がれている「胡錄(やなぐい)」に弓矢は逆さまに入れられており、平和を祈る舞とされています
これらが披露される石舞台には極楽が再現されており、ひときわ目立つ赤い大きな飾りは「曼珠沙華(まんじゅしゃげ)」
かつてはそれを支える柱に信貴山の苔や住吉浜の貝殻が貼り付けられていたそうです
その飾りを作るための貝は聖霊会の時期に吹く西風によって浜に打ち上げられます
「貝寄風(かいよせかぜ)」と言い
この時期の俳句の季語になっているそうです
これで四天王寺「聖霊会」のご報告はおしまいです。今回も長いお話になりました
最後まで読んで下さり本当にありがとうございました!感謝(拝)
貝の風 集会乱声の 響き舞ふ
エルスカ
※集会乱声(しゅえらんじょう)
聖霊会の始まりを告げる曲
「聖霊会」では楽舎が左右2カ所に別れていますが「集会乱声」では右方の楽舎で高麗笛にて「高麗小乱声(こまこらんじょう)」が吹かれ、左方の楽舎で龍笛にて「小乱声」が吹かれます
どちらもかん高い笛の音。
違う2曲を同時に演奏することで法要の始まりを伝え、ファンファーレの如き乱声となります
詳しくは四天王寺聖霊会と検索するとYoutubeでライブ配信の記録があります。
法要すべて見ることが出来ますよ